今や大変ペットとして人気のある猫。
その気ままな姿や愛くるしい仕草、その鳴き声にはたまらないものがありますよね。
わたくしこと筆者は猫を飼っておりませんが、
自分の周りの人が猫を飼っていることを知ると、自分でも飼いたいという気持ちがどうしても出てきてしまいます。
しかし、マンション住まいでペットは飼えず、情けないことに世話をする為のお金もありません。
ですから私は、代わりにというのも変なのですが、
あの出来事を思い出して何となく自分への慰めとしているのです。
今回は、私が高校生の大学受験の時に出会ったちょっと変わった猫との出会いをご紹介しましょう。
白い野良猫?
当時私は高校生で、受験勉強の真っ最中でした。
(せめて科目が3科目ぐらいだったらなぁ…)
覚えの悪い私にとって大学受験というのは勉強する科目が多く、
勉強しても少し時間が経つと忘れてしまうといった苦悩と戦っておりました。
(これじゃあ全然勉強する意味無いじゃん…)
模試を受けてみても緊張からなのか、はたまた勉強量が少ないだけなのか、
問題に対して思うように取り組むことが出来ず焦りばかり感じて、結果偏差値も低いという状況でした。
それでも大学受験に落ちることだけは嫌でしたので、
私はその気持ちだけで勉強に何とかしがみつくような毎日を送っていたのでした。
そんな時、母が私に言いました。
「近くにある神社にでもお参りに行ってみたら?」
「藁にもすがる思い」と言ったら大変失礼ですが、
あまり神様や神職に関して興味の無かった私も、母の言葉を受けて神社に行くことにしたのです。
(とりあえず、出来る事は何でもしよう!)
わがままな願いを引っ提げて私は、家を出ました。
神社の入り口に着き、それから階段を上ります。
(ここの神社、久しぶりだな…)
そんな風に思いながら階段を上り終えると、社に続く道の側にあるベンチに一匹の白い猫が座っておりました。
(あっ、猫…)
先程まで、受験の事ばかり考えていた私でしたが、
人生で殆んど触ったことの無い猫に触ってみたいという気持ちで一杯になりました。
(なんか警戒してるなぁ…)
その猫はずっとこちらを見ており、私が動く度に顔を動かして、視線を切ろうとしません。
私は、意を決して近づくことにしました。
猫は、じっとこちらを見ております。
近づいたら逃げるかなぁ、という気持ちを浮かべておりましたが、
何とか手の届くところまで近寄ることが出来ました。
するとその猫は私から視線を外し、遠くを見始めたのです。
私は、ゆっくりと手を伸ばし猫の背中に手を当てました。
そして、スッスッと手をスライドさせます。
(おぉ、撫でられた!)
その事に感動しつつも背中から伝わる体温を感じては、手から伝わるモフモフに癒されておりました。
そして、ある程度撫で終わった後にやっと私はお参りを済ませたのでした。
その時に願ったことはこんな内容です。
(本日は、猫を撫でさせていただきありがとうございました。後、受験受かりたいです)
今思えば何とも幼稚な言葉でしたが、私は満足して家に帰ったのでした。
お百度参り?
あれから私は、猫が気になっていたのか、それとも少しでも受験に受かる確率を上げたかったのかは分かりませんが、時間がある時はその神社に何度も足を運ぶようになっておりました。
(あれっ、今日もあの猫居るな…)
そして、決まって神社のベンチにはあの白い猫が座ったり寝転んだりしているのです。
私は、毎回その猫を撫でてはお参りをし、いつしかそれが習慣になっていました。
理由は今でも分かるのですが、
だんだん受験の日が近づくにつれて、自身の気持ちの焦りが強くなっていたのでしょう。
まさに苦しい時の神頼みでした。
そして、受験まであと一週間に迫った時の事です。
私は、胸に尋常じゃない焦りを抱えて、また神社にやってきました。
階段を上ってベンチの方を見ると、やはりあの猫が居りました。
(よし、最後に触らせてもらおう)
私は、慣れた感じでその猫に近づき、いつも通り背中を撫でました。
その時です。
「にゃーん」
いつもは撫でられるだけの猫が起き上がって、私の手に鼻を近づけてきたのです。
猫が鼻を近づける時は、挨拶の意味があったり、安心かどうかを確認したりする意味合いがあるそうですが、それにしては今更感を強いように思えます。
そして、一通り私の手を嗅いだ後、再びベンチに座り込んでしまいました。
私はチャンスと思い、今まで出来なかった猫の頭を撫でるという行為を試そうとしました。
結果は、成功しました。
その時です。
今でもはっきりと覚えているのですが、その猫に触ることを許してもらったという感じがして、とても気持ちが穏やかになったのを覚えております。
あまりやりすぎてはいけませんが、その時だけはたっぷりと猫を撫でさせていただき、
お礼のお参りをして帰りました。
モフモフ効果?
受験当日、私は信じられない程緊張しておりました。
とても胸が辛くて、会場に入ることもままならないような足取りでしたが、
何とか会場内の席に着き、その場で何度も何度も自分を落ち着かせようとしました。
その時私は、無意識に自分の片手をもう片方の手で撫でていました。
まるで猫を撫でる時のようにです。
そんな事を思い出しながら手を撫でていると、何故だか安心してきました。
あの神社の猫は、私の手を嗅いで敵ではないと思ってくれたみたいでしたが、
それと似たよう感じで、私自身がこの場やこの状況は安心と思ってくれたのかもしれません、
そして、試験の開始が告げられた時の私は、安心しながらペンを手に持っていました。
(あぁ、ここは分かるな。あっ、ここは分からないから後でやろう。よし、分かる箇所からやろう)
恐らくですが、緊張していた私なら分からない問題が出てきた時点で後に回さず、
どうしようと戸惑っていたと思います。
しかし、その時だけは冷静に状況判断をすることができ、
テストが終わった後も最善を尽くせたという何か達成感みたいなものを感じたのでした。
受験結果は、見事に合格しました。
私は、会場で試験結果を知ってから心の中から何かが抜けるような気持ちでその場に立ち尽くし、その日はぐっすりと寝ることが出来ました。
次の日、私が最初にやりたい事は、ただ一つです。
私は、ゆっくりと神社の階段を上り、そしてベンチの方に目をやりました。
すると、あの猫が居ました。
(よかったぁ…)
私は、ホッとしながらその猫に近づき、いつものように背中や頭、あご下を触らせていただきました。
勿論、心の中でお礼を言いながら。
そして、いつもより長めのお参りをし、神様にお礼の言葉を伝えました。
神様の使い?
以上ここまで、私が高校生の大学受験の時に出会ったちょっと変わった猫との出会いをご紹介しました。
このお話、猫が中心の話だと思いますが、もう一つの側面があると私は思っております。
これはあくまで私の思い出から想像する見方ですが、猫を撫でるという行為を通して、
自分を安心させる為の技を神様から伝授していただいたのではないかと思っているのです。
最初私をじっと見て警戒していた猫と同じように私が緊張していたら、
あの受験も合格できなかったような気がするのです。
そして勿論、今もこの自分の手を撫でるという技は、仕事や人生のあらゆる場面で役に立っております。
あの神社には今は行っていないので、あの猫が居るかは分かりませんが、自身の手を撫でることで神社の出来事を思い出し、まるであの猫を自身が飼っていたような妄想をしております。
神様にもとても感謝をしており、また時間があったらあの時の神社を訪れてみようと思っております。
diary.st著
